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06/05/04

第12回 「端午の節句」


端午の節句の由来はというと、中国からきている。楚の国王の側近に屈原(くつげん)という人がいて、とても人望厚い人だった。しかしそういう人ほど悪人に疎まれやすい。屈原は陰謀によって失脚し、国をわれてしまう。

それにより屈原は失望し川に身を投げてしまう。それを知った楚 の国民は川に行き、太鼓を打ち鳴らしたり、ちまきを投げたりして死体を魚が食べないようにした。そのことがへさきに竜の首飾りをつけた船で競われる行事になり、現在のドラゴンレースの始まりとなった。

そして屈原の命日である5月5日に、供養するための祭事が行われるようになり、ちまきを川に投げ入れ国の安泰を願う風習が産まれた。さらに病気や災厄を除ける宮中行事になり、それが日本に伝った。季節の変わり目であるこの時期は、特に病気になる人が多く、それとあいまってこの風習が広まった。

端午の節句は奈良時代から続き、端午とは月の端(はじ)の午(うま)の日という意味。月初めのことだね。午と五の音が同じなので午が5日をさすようになり、やがては5月5日になったとも言われている。結構強引だなあ。昔は端午の日に薬草摘みをしたり、菖蒲酒を飲んだりして病気に気をつけたり、災厄除けとして菖蒲を飾ったり、悪鬼払いとして馬から弓を射る儀式などが行われていた。

江戸時代には鯉の吹流しを立て、武者人形を飾って男子の前途を祝うようになった。5月5日は5が重なるため重五、とか菖蒲を用いるので菖蒲の節句と呼ばれている。菖蒲はヨモギと共にむかしから悪鬼払いとして使われていて、軒に飾ったり、湯に入れて使われた。更に菖蒲は薬草で、邪 気を避け、悪魔を払うという昔からの信仰があり、節句 にはヨモギとともに軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。

武家の社会では菖蒲と尚武をかけて端午の節句を尚武の日として祝うようになり、徳川の時代では特別な日として定められた。将軍に男子が産まれると馬印やのぼりを立てて祝った。こうして男の子の節句として移り変わってきたものと思われる。

また武家の吹流しに対抗して、町民は紙で作ったこいのぼりを竿につけて高く掲げて楽しんだ。鯉の滝登りのように元気にすくすくと育つようにと、子供の成長を願った。

そして武家も町民もない社会になり、全てがあいまって今の風習になった。だから本来は男の子の節句というものではなく、健康に気づかい、邪気をはらうという日で、男子や女子の分け隔てはない。まあ、昔の名残というか、ひな祭りと分けて行われる風習になったのだと思う。今はこどもの日ということで、子供の成長を願う日となっているのかな。いろいろなことが混じり合って随分と内容は変わってきたけど、それも長い歴史の大切な遺産だよね。だからそういうものは大切に後世に伝えていかなくてはいけないね。
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